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ニューヨークヤンキースの歴史
(THE HISTORY OF "YANKEES")
1901 チーム発足
1901年にアメリカンリーグ創設と共にメリーランド州ボルチモアに球団を発足。設立当初は「ボルチモア・オリオールズ」(現在のボルチモア・オリオールズとは関係がない)。
その後1903年よりニューヨークにフランチャイズを移転。「ニューヨーク・ハイランダーズ」という名称で1910年まで活動を続けた。
その後現在まで続く「ニューヨーク・ヤンキース」と名称を変更した。
1901年〜1920年の間のヤンキースは決して強豪チームとはいえず、苦難の道のりを進んだ。
チーム事情の悪さに加え、八百長疑惑もあり、チームはワールドシリーズはおろか、地区優勝をすることもできなかった。
1920 ベーブ・ルース入団
1915年、それまでのオーナーであったフランク・ファレリとウィリアム・デヴァリは、当人同士の不仲と財政難によって、チームをジェイコブ・ルパートとティリンゴースト・ヒューストンに売却する。
新オーナーは財力にものを言わせ次々と選手を獲得。ヤンキースは強豪チームへと変化していく。
その中でも際立って目立ったのは1920年の ベーブ・ルース入団だった。
当時ルースはボストン・レッドソックスに属していたが、ヤンキースがレッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークの抵当に付された借金30万ドルとさらに12万5千ドルを 支払い、ベーブ・ルースを獲得した。
(後に※「バンビーノの呪い」と称された)またルースは当初は投手であったが、ヤンキースに入団後は打者として成長していった。
※「バンビーノの呪い」…バンビーノとはベーブ・ルースの愛称。
ルースを手放したレッドソックスはその後不調に陥り、ワールドシリーズを制覇するのに84年の月日を要した。
これをバンビーノの呪いという。それとは裏腹にヤンキースはその後飛躍的に力を伸ばし、常勝軍団としての地位を築いていった。
1921-第一次黄金期
1921年ベーブ・ルース加入後のヤンキースは一躍強豪チームにのし上がり、この年初めてリーグ制覇を成し遂げる。ワールドシリーズでは宿敵ニューヨーク・ジャイアンツと対戦するが、この年は敗れてしまった。
翌年もヤンキースはリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズに進出。前年と同様ジャイアンツとの再戦となったが、ここでも雪辱を晴らすことはできなかった。
1923年にはニューヨーク市ブロンクスにヤンキー・スタジアムが完成。当時最先端の技術で建てられた三階建て5万8千人収容の球場は「ルースが建てた家」と呼ばれた。
そしてこの年ベーブ・ルースは打率.393を記録し、チームは3年連続の地区優勝。ワールドシリーズでは三度ジャイアンツと相見えるが、この年はようやく雪辱を果たし、初のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。
この年以後ヤンキースは快進撃を続け、20年代は6度のリーグ優勝、3度のワールドシリーズ制覇という快挙を成し遂げた。
特にルースに加え、ルー・ゲーリック、トニー・ラゼリ、ボブ・ミューゼルを擁した1927年の打線は「殺人打線(Murderer's Row)」と呼ばれて怖れられた。
1930-ジョー・マッカーシー時代
30年代に入るとハギンズ監督が急死してしまい、その後をジョー・マッカーシーが率いた。
ジョー・ディマジオやフランク・クロセッティ、レフティ・ゴメスを擁したヤンキースは30年代初頭こそリーグ優勝を逃したが、30年代後期にはワールドシリーズ4連覇という前代未聞の記録を立てた。
1950's-1964 第二次黄金期
かつてニューヨーク・ジャイアンツの監督としてチームを苦しめたケイシー・ステンゲルが監督に就任し、1950年代〜60年代にかけてのヤンキースは史上最高の成績を残した。
主力には捕手ヨギ・ベラ、ミッキー・マントル、ロジャー・マリスのMMブラザーズ。さらには投手ホワイティ・フォードなどを据え、彼らがチームを牽引したが、ステンゲルは凡庸な選手の能力をもその采配によって最大に引き出し、チームを最高の状態へ導いた。
1949年から16年間で14回のリーグ優勝。かつワールドシリーズ5連覇を含む9回の世界一という、世界のプロスポーツにおいて類を見ない偉業を達成した。
1965-1975 暗黒期
1964年のシーズン終了後、CBSがダン・トッピングとデル・ウェッブから1120万ドルでヤンキースを買収した。
チームがCBSの手に渡った途端、ヤンキースはそれまでの好調が嘘のように転落していった。
60年代までは常勝軍団として名高かったが、1966年にはついに屈辱のシーズン最下位を記録してしまった。
名称がヤンキースに変更になってから初の最下位転落にチーム内に動揺が走った。
ジャッキー・ロビンソン以降他のチームは黒人選手に対して次第に寛容な態度をとるようになっていたが、ヤンキースはその伝統からそれを躊躇っており、それが起因して約10年間の間チームはリーグ優勝から遠ざかってしまった。
1976-1981 束の間の夢
そして1970年代中盤に入り、ジョージ・スタインブレナーがヤンキーズを買収して、オーナーとなった。
スタインブレナーは大幅なチーム改革を図り、かつ老朽化したヤンキースタジアムを改装して、チームの立て直しに従事した。
オークランド・アスレチックスからレジー・ジャクソンを獲得したが、当時の監督だったビリー・マーチンとの間に確執を生み、チームケミストリーはなかなか生まれなかったものの、76年にようやくリーグ優勝を飾ると、息を吹き返した。
そして77年はシーズン100勝を超える成績を残し、ワールドシリーズに進出。
対戦相手はロサンゼルス・ドジャースだった。
このシリーズでレジー・ジャクソンは3打席連続初球本塁打という圧巻の記録を残し、チームはワールドシリーズを制覇。
また翌年にも同じくドジャースを下し、ワールドシリーズ連覇を達成した。
この数年間のヤンキースは黄金時代を彷彿とさせたが、81年を境にチームは再び低迷期に入っていく。
1982-1993 低迷期
80年代になると、ヤンキースは資金力に物を言わせ、デーブ・ウィンフィールドに代表される大物FA選手などの獲得をするが、チームにはそこまでの効果が現れなかった。
1990年に入ると才能を大金で買うスタインブレナーの手法が疑問視され、チームの方針はGMのジーン・マイケルとバック・ショウォルター監督により変更され、
ファームで才能をもった生え抜きの選手を育てる方向にシフトし、これが後のチーム復活に多大な影響を齎した。
1994-2000's 第三次黄金期
チーム方針変更の効果が出てきたのは1994年だった。
このシーズンはストライキによって短縮され、ポストシーズンは行われなかったが、ヤンキースは地区優勝を飾って、その好調ぶりをアピールした。
GMブライアン・キャッシュマン、監督ジョー・トーリという布陣の中、デレク・ジーターやアンディ・ペティット、ホルヘ・ポサダ、マリアーノ・リベラ、 といった、ファームで育てられた生え抜きの選手の成長と共にチームは一気に躍進した。
そして1996年チームは好調を維持しながら、ワールドシリーズに進出。アトランタ・ブレーブスを下して約20年ぶりにワールドシリーズを制覇した。
それからヤンキースは王朝を築き、1994y年から11年間で9度の地区優勝。ワールドシリーズ3連覇を含む4回の世界一を達成。
完全にチームとして息を吹き返した。
そんな中、1997年には伊良部秀輝、2003年には松井秀喜、2007年には井川慶といった、日本人選手たちも在籍し、好調ヤンキースの一端を担っている。

